残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探してみたいです。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。多分に宗教的な雰囲気にもなっていくかもしれませんが、直接宗教を題材にしたブログではありません。

幸せになることを放棄する

先日歩きながらふと、残りの人生は幸せになりたい、と思いました。
だけど、その瞬間、幸せになるって具体的にどういうことなんだろう、と思ったのです。

自分が幸せな状態を、できるだけ具体的に思い浮かべてみました。
経済的な心配がなくなること。贅沢はできなくても、日々の暮らしが送れて、多少の楽しみを持って、それが将来崩れていく心配もない状態でしょうか。
優しい人たちに囲まれて、私もその人たちに優しくすることができて、楽しい会話が交わされる、そんな状態も幸せです。
人に助けられて嬉しくなり感謝して、私も人を助けて感謝される、それも幸せかもしれません。

こうして幸せな私を想像してみて気が付きました。
実は幸せになりたいからといって、それほど沢山のことは思いつかないのです。書きあげていくと、次から次へと出てくるわけではないのです。
そして具体的なことは、ほとんど頭に浮かびません。
おいしいものを食べたい、じゃあ何を食べたいのか、それほど次から次へと浮かぶわけではありません。

ですが、今書きあげたような幸せな状態になること、経済的不安がなくなったり、よい人間関係を作り上げたりすることは、実はどれも難しいことでもあります。特にその状態が永続的に続くこと、そしてその確証があり安心を得ることが、一番難しいことです。
経済的な安心も、それが永続的に続く確証が持てなければだめなのです。
人間関係も、そもそもそんなに楽しく何の問題もない状態はほとんど期待できないですし、しかもそれが永遠に続くことは不可能だと、私はこれまでの経験上、かなりの確信をもって言えるのです。
永遠に続く安心が、幸せの条件ならば、私にとって大変難しいことでしょう。

幸せを求めなければいいのか。

そういう思いが浮かびました。
なぜ幸せを求めようとするのか。そもそも、その幸せな状態と言うのが、自分でもはっきり描けないではないか。
そして満たされてもすぐに、何か満たされない気持ちになり、安心してもすぐに不安な気持ちになってしまう。考えてみると、どうなれば私は幸せと感じるのでしょうか、それすら分からなくなってきました。

そもそも自分でも実態が分からない「幸せ」というものを求める理由は何でしょう。分かりません。それならば幸せになりたい、と望むことはやめたほうがいいのかもしれません。

実態の分からない「幸せ」を求めて、「幸せ」になることがまるで自分が生きていく目標のように考えているのが、今の私かもしれません。「幸せになる」ことに取りつかれて自分を追い込んでいる、そんな気さえしてきます。

いっそ「幸せになる」という目標を放棄してしまえば、楽になるのかもしれません。