残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探してみたいです。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。多分に宗教的な雰囲気にもなっていくかもしれませんが、直接宗教を題材にしたブログではありません。

ミクロの世界と阿弥陀仏の誓願

私は若いころから科学関係の本、特に宇宙や物理学に関する本を読むのが好きでした。もっとも素人なので、一般向けに書かれた新書等がほとんどで、専門書を読んできたわけではありません。
例えば、宇宙の起源や果て、それに関連して相対性理論量子論不確定性原理などの本です。

一方でこの十年ほどは、浄土教関係の本、つまり阿弥陀仏に関する本も読むようになりました。
すると、宇宙や量子論の話と、阿弥陀仏の話には、共通するものがあると感じるのです。もちろん、物理学で浄土の教えを解き明かす訳ではありません。
一言でいうと、どちらも、私の常識から離れなければ理解できないことだ、ということです。

『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書、橋元淳一郎著)という本を参考に書いてみます。この本は「時間」がテーマですが、私が読んできた中でも特に、相対性理論量子論も分かりやすく簡潔に書かれている本です。

量子論基本法則、不確定性原理によれば、電子などの粒子の位置と速度は、観測していない時には実在しない、というのです。さらに、原子や素粒子レベルのミクロの世界では、時間は実在しないというのです。
時間と言うのは、原子の大集団であるマクロな世界、つまり私たちのレベルの概念だということが分かりやすく説明されています。
私には全て理解できていないかもしれませんが、なるほどと思える内容です。

この本の冒頭には、ミクロの世界では実在しない分かりやすい例として、「色」があげられています。
「色」と言うのは光、つまり電磁波が私たちの網膜を刺激して、それを脳が感知することにより認識できます。だけどミクロの世界になると「色」はありません。それはそうです。原子、さらに素粒子そのものに色はないでしょう。
この「色」の例は理解しやすいのですが、ただ「色がない」ということは実感としてはつかみにくいものです。

中学校の理科室に分子のモデルがあったのを記憶しています。
赤や青の玉が棒でつながれていました。球はそれぞれ水素原子や酸素原子を表して、それがつながって水などの分子ができている、そういうモデルです。
だけど、原子や分子に「色」はないのです。分かってはいますが、ミクロの世界には「色」がないと説明されるより、私には、理科室にあったモデルの方が、分子や原子の本当の姿に近いように思えてしまうのです。

阿弥陀仏の話に変わります。
阿弥陀仏誓願によって、その名を称するものは死後、浄土に仏として生まれることができる。
死後の世界に何が待っているのか、何もないのか、それは誰にも分かりません。想像するしかありません。
そう思う時、私は阿弥陀仏誓願を信じたいと思うのです。
自分はどこまでも苦しみから逃れられない、その苦しみの大きな原因は、私の「我」、自己中心性にあることに、今の私には思えるのです。ですからその苦しみから抜け出すには、もう自分では無理であり、阿弥陀仏誓願を信じるしかないと思うのです。
そして、いくつかの本を通して知った阿弥陀仏誓願と念仏の考え方は、論理的でもあり納得できるものでした。

ですが、なぜか信じ切れない自分がいます。他に苦しみから自分を救い出す方法は見つからないのに、信じ切ればいいのに、何かがブレーキをかけるのです。

その感覚は、正に量子論などに触れた感覚に似ています。
ミクロの世界には色はない、それどころか素粒子には位置や速度も、時間すら実在しない。
本を読めば話としては理解できます。ですが、そのような世界を想像することができないのです。様々な物理関連の本を読んできて、決してこのことは嘘ではないことは分かります。これまで様々な仮説を立て実験を繰り返し、名高い研究者たちが築き上げてきたものです。
それでも時間が実在しない世界とはどんな世界なのか、その世界だって私たちが生きる「世界」の一部なはずです。それをどうすれば「時間は実在しない」などと認識できるのでしょうか。

私が持つ日常の感覚から抜け出せないからだと思います。そして今の私にはまだ、自分が認識できることしか信じられないからだと思います。
「おかしいじゃないか、時間がないなんて、実際に今も時間は流れているじゃないか」
でも、時間が実在しないことは、決してでたらめな空想ではないのです。

「浄土なんてどこにあるの」
「仏様はどこに、どんな姿でいるの」
仏は世の中の真理が私たち人間に理解できるように姿を変えた方便なのだ、そう説かれることも理解でき、私は納得できます。しかし、実感としてとらえることがどうしてもできないのです。

あくまでも常識に縛られている私自身に、自分で驚いてしまいます。
もしかしたらこれが凡夫というもので、阿弥陀仏は、こういう私の考えや感じ方もお見通しなのでしょうか。