残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探してみたいです。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。多分に宗教的な雰囲気にもなっていくかもしれませんが、直接宗教を題材にしたブログではありません。

【法話】「現代を生きる力としての仏教」釈徹宗

神奈川県横浜市にある、「慈陽院なごみ庵」の法人化記念行事として、2019年12月8日、東神奈川の「かなっくホール」へ、釈徹宗先生の法話を聞きに行きました。

講演や法話を聞くときには、聞くことに集中したいので、今回もメモは取りませんでしたし、録音などもしていません。
私の聞き違えもあるかもしれませんし、理解不足もあるかもしれません。話の順を正しく追っているわけでもないので、あくまでも私の解釈で法話の一部を書き留めたものだとご理解下さい。


 「バカの壁

釈先生については私の不勉強のため、この法話を聞くまでどういう方なのか知りませんでした。それで聞きにいくというのも、いい加減だと思われるかもしれませんが、ホームページで見た「なごみ庵」の雰囲気に惹かれるところもありました。そして初めてお話を聞く釈先生は、楽しく分かりやすく話してくださいました。
ちなみに私は「なごみ庵」を訪れたことはありません。「なごみ庵」のご住職は穏やかな話し方をされる方で、ご住職のお話もいつか聞いてみたいと思いました。

さて釈先生のお話ですが、養老孟司さんの『バカの壁』という本を取り上げて、そこから話を進めていきました。
人は自分中心にしか考えられずに、強固な「枠」を頭の中に作り上げてしまいます。
その自己中心的な「枠」、つまりバカの壁を壊すにはどうするのか。
それが壊れるのは例えば「死」について考える時だったりします。自分が死と向かい合わなければいけなくなったときに、その自分の「枠」が壊れるのです。

苦しみは「結果」、その「原因」は?

人は苦しみや悩み、怒りなどと共に生きています。そこから離れようとするにはどうすればいいのでしょう。
釈先生は、苦しみ、怒りなどは「結果」なのだ、と話しました。するとその「原因」を見つけなければいけません。
その「原因」を釈先生は、きわめて簡潔で分かりやすい表現をしてくれました。
「原因」は「自分の都合」なのです。

「結果」だけを見てなんとか逃れようとしても、怒りがまた怒りを呼ぶ、苦しみがまた苦しみを呼ぶことになります。
「原因」となることは「自分の都合」だと認識しなければいけないのです。

正しいことも間違った方向に進んでしまう

「自分の都合」に関連して、釈先生が分かりやすい例を話してくれました。自分が正しいと思っていることでも、そこに固執すると間違った方向に行ってしまう、という例です。

例えば、ある人が道にペットボトルが捨てられてるのを見て拾いました。
よく見ると、あちこちに捨てられているので拾って処分しているうちに、近所の人も手伝ってくれました。そして、いつの間にか日を決めて、近所のみんなで道路掃除をするようになりました。
ここまでは良い話で、正しいことをしているといえるかもしれません。
だけど、それが決まり事となってくる、つまり頭の中でそうするのが良いことだという強固な「枠」が出来上がってしまうと、今度は「あの人は手伝ってくれない」とか、道にポイ捨てをする人を睨んでののしったり、怒りや憎しみの方向にいってしまいます。

「自分の都合」を原因として、苦しみや怒りが生まれてきてしまう。
それを避けるために、自分を点検する作業が必要になります。
例えば「死」を意識することが、その自分を点検する機会にもなるのです。

大事が起きなければ気が付かない私

ですが、釈先生の話を聞いて私は思いました。
死を目前にしなければ、私は本当に目覚めることはできないのかもしれない、そしてそれは悲しく残念なことに感じました。

私はこういうブログを立ち上げて、今、自分の生き方を改めて考えているわけです。
そのきっかけは、死を覚悟する病ではないのですが、仕事とプライベートでの大きなトラブルによって、もう自分の生活は立て直せない状況に陥ってしまったことが原因です。今現在もその状況は続いています。

当然、若いころから自分の生き方や考え方について、色々と思い悩んできたと自分では思うのですが、実際はこんな状況になってしまうまで、自分の考え方や行動をとことん疑って、これまでの生き方を顧みることはなかったのです。

もしかしたら実は今も、考えているうちに入らないレベルなのかもしれません。
数年後に、さらに苦しい出来事に遭遇して、そこで初めて気が付くことがあるのかもしれません。
そう考えると、正に私には救いはないのかと感じてしまい悲しくもなり、これから私の身に起こるかもしれない出来事を思うと、恐ろしくもなるのです。