残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探してみたいです。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。多分に宗教的な雰囲気にもなっていくかもしれませんが、直接宗教を題材にしたブログではありません。

私が自殺を選ばない理由

浄土の教えを知ると、極楽浄土へ行くために早く死んだほうがいいのではないか、と思ってしまいます。阿弥陀様を信じて念仏を唱えて自殺をすれば、極楽浄土へ往生できるんではないか、とふと考えてしまいます。
これまで私まだ、仏教で自殺をはっきり否定し、かつ私が心から納得できるような話に出会っていません。『歎異抄』の中に、それを感じさせる個所はあるのですが、私は心から納得できていません。

そのことを考える前にまず、私自身が自殺を考えたことがあるのか、ということですが、自殺を考えることはあります。
ですが今の私は自殺はしたくありませんし、おそらくこの先もしないと思います。
自殺を真剣に考えている人からすれば、「それは、あなたがまだ死ぬほど苦しんでいないからだ」と言うかもしれません。
そうかもしれません。ですが、今の私の状況を可能な限り客観的に考えると、こういう状況で死を選択する人もいるのではないか、と思います。
同じ状況であっても自殺を選ぶ人もいれば、選ばない人もいることでしょう。人は一人ひとり違う人間なのですから、似たような状況でも、それにどう対応するのかは一人ひとり違うのは当然かもしれません。

そして、自殺の根本的な原因を明らかにすることも、簡単ではない気がします。
芥川龍之介が自殺について書いた有名な文章があります。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、あるいはまた精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。

ある人がなぜ自殺をするのかを明らかにすることは難しいでしょう。自殺をする理由というのは、その人の置かれている状況だけで計ることはできない何かがあると思うのです。

私の場合にはどうでしょう。今の私はかなり絶望的な状況ですが、自殺は選びません。
なぜなのか考えてみると、大きく3つ理由が考えられました。

1つ目は、周りに迷惑がかかる、ということです。
この迷惑と言うのは、後処理や経済的な迷惑などはもちろん、悲しませる、苦しませる、ということも含まれています。
ですが周りのことを考えている時点で、私は自殺から遠い位置にいると思います。本当に自殺を考えた時には、むき出しの自分が出てくる思うので、周りの事は考えられない気がします。ですから、周りに迷惑をかけるからというのは、そもそも自殺をしない理由としては弱いものだと思います。

2つ目は、痛そうだ、苦しそうだというという極めて直接的な理由です。
例えば電車に飛び込めば、おそらく一瞬でしょう。ですが、実際に電車に飛び込んで自殺した人から、「全く痛くなかった」という報告があったわけではないのです。
一瞬でも、想像を絶する苦しみが襲うのではないかと思うと、やはり怖いのです。

3つ目の理由ですが、これが実は私にとって一番大きな理由です。
死ぬ瞬間に、「やっぱり死にたくない!」と思ってしまうのではないか、ということです。
たとえばビルから飛び降りる場合、地面に達するまで何秒かあります。飛び降り自殺では飛び降りた瞬間には気を失っている、という話も聞きますが、これも先ほどの「痛み」の問題と同じで、自殺をした人からの報告はないのです。
そして、どんなに覚悟を決めて飛び降りたつもりでも、地面に達するまでの数秒間に「やっぱり生きていたい!」と思った時、その時の恐怖を考えると私には自殺はできません。取り返しがつかないことをしてしまった、その後悔と恐怖がその数秒間、私を襲うのです。
生きていくなかで、取り返しのつかないことをして絶望的な気持ちになることはあります。それでも生き続ければ、まだ違った道があります。正確に言うと、違った道を行くしかないのですが、その先には希望があるかもしれません。
だけど、ビルから飛び降りてしまったら、本当に取り返しがつきません。その瞬間、ちょっと待って!と思っても、全く無駄なのです。
瞬時に死ねるように、電車に飛び込むとか、どうにかピストルを入手して頭を打ち抜くとかすればいいではないか、と言われるかもしれません。ですがピストルの引き金を引く指に力を入れた瞬間、躊躇する気持ちが生まれたら、もうそれは取り返しのつかないことです。

この3つ目が、私が自殺をしない、できない一番の理由なのです。
まさに、この世界、娑婆への未練です。極楽浄土という世界を信じていないからでしょうか。死んだ後には極楽に行けるならば後悔することもないはずだ、と考えたりもします。
本心をいうと、自殺したくない、できない私は、浄土教からも納得のいく教えによって明確に自殺を否定してほしいのです。
今私が一番、自分の生き方の指針になると感じている浄土の教えと自殺について、また近々記事を改めて書いてみたいと思います。