残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探してみたいです。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。多分に宗教的な雰囲気にもなっていくかもしれませんが、直接宗教を題材にしたブログではありません。

法蔵菩薩 ~阿満利麿先生の講演を聞いて~

先日、阿満利麿先生の講演を聞き、それについて感じたとこを記事にしてきました。
前回の記事で、先生の本や話には、仏教に素人である私の素朴な疑問に答えてくれる内容が多い、ということを書きました。
今回聞いた講演でも、いくつかあったのですが、その中の一つを書き留めたいと思います。

無量寿経』には、法蔵菩薩が四十八の願をたてて、それが成し遂げられ阿弥陀仏になったことが書かれています。
この願の立て方が、私にとってとても不思議だったのです。

例えば第一願です。

たとえ、わたくしの願行成就して仏になれる時が来ても、我が国土に地獄界・餓鬼界・畜生界に迷い苦しむ者あらば、わたくしは仏になりません。
(『全文現代語訳 浄土三部経』大角修=訳・解説 角川文庫)

このように、「たとえ、わたくしが仏になれる時が来ても……ならば、わたしくしは仏になりません」というような言い方で四十八の願がたてられています。

この言い方が不思議でした。
仏になる、ならないは自身の願いでもあるし、自分の修行の成果であるはずなのに、条件が整わなければ仏にならないというのです。
仏になるために、法蔵菩薩は修行をしたのでしょう。それが、仏になれる時が来ても、条件が整わなければならない、という言い方に感じられ、私にはとても奇妙に感じられました。

阿満先生は講演の中で、この点を指摘しました。
先生は、「わたくしはこうしたい」と書けばいいのに、わざわざ願いを立てたうえで、それがかなわなければ仏にならないという書き方に注目します。
それは法蔵は、自分が仏になるよりもまず衆生を救いたい、と願っているからだ、と先生は言うのです。法蔵菩薩にとっては、自分の悟りを第一とせずに、人々を救うことが第一だったのだと。

法蔵菩薩について先生は、法蔵とは一人ひとりの自分の事なのだ、と言いました。自分の深い意識の中に生まれた存在で、経典では法蔵は仏になる、だから私も仏になるのだ、と言うのです。

正直、私にはこの部分はよく理解できずに未消化のままです。
本でしたら、何度も読み返して、考えることもできますが、講演はその場で聞いて考えるしかできません。

私が阿弥陀仏誓願を信じて念仏を唱えることによって、私の中に法蔵菩薩が生まれるというのは、それは違う気がするのです。いえ、他の人はともかく、私に当てはめると違う、と言うべきでしょう。
なぜなら、私が本や経典を読んだり、講演や法話を聞いたり、こういうブログを書きながらいろいろ考えているのも、私が私の抱える苦しみから抜け出したいという思いからです。
法蔵菩薩のように、自分の悟りよりも他の人の救済を考えることなど、私には全くできない事なのです。

それでも、私の奥底に生まれた法蔵菩薩は、いずれ成長して、私にも他の人を救いたい気持ちが生まれてくるのでしょうか。
今の私には、それは私自身が悟りを開き、この現世において苦しみから抜け出せるとこ以上に、困難な気がするのです。
私はあくまでも自分の救済が第一な人間であり、他の人の幸せや救済を求める法蔵菩薩にはなれないのです。

いつものように講演内容を記録していないので、私の聞き間違い、誤解もあるかもしれません。今私が感じたことも含めて、また考えていきたいと思います。